空挺にはいる三年前のあの日――
神主修行として伊勢神宮の研修所に入り、一種独特な学生生活を送っていたそのとき、「野生の証明」がこの田舎町にやってきた。
山口組内宅見組のどでかい金看板が映える目の前に、その映画館はあった。
「野性の証明」を見たからといって、自衛隊に入ったわけじゃない。
しかし、レンジャーがロープ一本で谷を渡るシーンは、今でも私の脳裏に焼きついている。
静岡の神社に入った私は悲しい恋愛を重ね、死ねたらいいなあという軽い気持ち?で空挺に入った。
――自衛隊ではふつうに空挺といい、それは習志野の第一空挺団をさす。
習志野といえば空挺を指した。
そこでは空挺レンジャーが、黒地に髑髏マークのレンジャー旗を掲げ、「空挺……レンジャ……」と低くくぐもった吐息をもらしながら走っていた。
だれもがテレビでしか見ることの出来ない……銃を撃ちながらのリペリング(ロープ降下)、モンキー渡り、鬼教官のしごきなどを繰り広げていた。
肋骨を痛めての空挺徽章伝授――あの時は感動しました。
そして晴れて戦闘服や様々なところにウイングマークを縫い付け、制服には光り輝く空挺徽章をつけた。私にとっては思い出深い空挺生活だった。
着水訓練で装着が悪く、亀の子の様にベチャッと落っこち、肋骨を痛め……走るたびにギシギシ言い、顔を真っ青にして走ったことを思い出す。
医師の診断を受けたら空挺隊員の道は閉ざされる……教官たちも知っていたが、あえて何も言わなかった。
初めて飛び出し塔訓練をしたとき、教官に、
「おい、〇〇番、顔が蒼いぞ――」といわれ、そんな馬鹿なと教官に食らいついたことを覚えている。
恥ずかしかった……
落下傘をつける――着け方を失敗した。
身体がまたもや亀の子になった。
脱着帯を締めすぎて、丸くなってしまい、直立できなかった。
「おい、〇〇番、前に出ろ――」
「みんなよく見ておけ――これが悪い着け方の見本だ――!」
けっこう恥ずかしかった。
三重県明野飛行場(陸自)での展示降下……風に流され……卓越した落下傘裁きも功を奏せず、飛行場の硬い滑走路に着地……右肘負傷……痛い……
でもWAC(婦人自衛官)の新隊員に、
「ご苦労様です……」と黄色い声で敬礼されたことがうれしくて、夜も眠れなかった。
そしてのちに佐久間二曹に出会うことになる。
サボって一ヶ月以上の外出禁止を食らったのが、せめてもの思い出だろうか?
町田義人さんの歌は映画のシーンとオーバーラップして、なぜか好きです。
その後、映画のオーデイションから華麗に登場した薬師丸ひろ子さんは、圧倒的な声量を武器に瞬く間に歌手デビューし、一世を風靡した。
どれだけ音域があるのかと思うほどの、透き通るような歌声に聞き惚れ、大枚を叩いて買ったウォークマンで聞き、東京の街を歩きました。
「セーラー服と機関銃」
この映画は面白かったですよ~~
なにしろ女子高生が機関銃をぶっ放すって言うのが爽快ですね~~
ていうか~~機関銃自体、撃ってみたいですよ~~〈女子高生言葉になってます〉
これは人間に生まれて以来、だれでもが願望を持っているような気がします。
不思議ですよね~~人殺しの道具なのに……。
角川社長の麻薬投獄事件――あれ以来私の楽しみは減りました。
酒井法子さんの事件もまだ覚めやらぬ今日、たしかに麻薬は犯罪です。
麻薬はしかし恐ろしい病気です。
私は現在喫煙者ですが、いまだにそのタバコさえやめられません。
私が麻薬をやったら……絶対やめられないでしょう。
以前、「太平記」を映画化するということを聞きましたが、その最中に社長の逮捕があり、いつしか「太平記」は消えてしまいました。
もちろんNHKの「太平記」は私の人生といってもいいくらい、あの一年の思い出は忘れられません。
いつか復活して「太平記」を創ってもらいたいですね。
〈こんな映画を創ってもらえたらうれしいな。角川さん――期待しています。〉
信長は首里城とは反対方向の新造の館の一室にいた。
ここは沖縄――。
対上杉戦争で領土のほとんどを割譲し、西日本を治めることとなった。
ただ上杉謙信は領土的な欲がないため、尾張・美濃・伊勢の領地は安堵され、拠点として堺港だけ残された。
当初上杉軍に追いまくられ、本願寺や松永久秀の反乱に絶体絶命の窮地に立たされたのであったが、あわやと言うところで信長のほうが白旗をあげた。
謙信のほうも東のほうが完全な支配ではなかったので妥協し、将軍を京に戻すこと、政道からは一切手を引くことなどで合意した。
那覇港を埋め尽くすほどの軍船が集結し、すべての準備を整え、いよいよフィリピンへと馬を進めるまさに開戦前夜だった。
敵の出方次第では世界戦争にも発展しかねない重要な局面であった。
……………………
〈本能寺――上杉織田会談〉
「南蛮か――これはオモシロイ。」
謙信の大きな声が響きわたる。心底面白がっているようだった。
謙信にも南蛮の文物などには興味があった。
しかしもう齢五十に手が届こうとしている。人生の大半を武田信玄、関東の北条氏康との戦いに費やしてしまった。
もう少し若ければ――武田信玄さえいなければ――上洛して何か出来たかもしれない、と思う。
自分より若い信長がうらやましかった。
「ほう、これは豪快なことよ。南蛮を攻め取るか……?」
謙信も内心ほっとしていた。
関東は一応北条と同盟を結んでるとはいえ安心できるものではない。自然瓦解ということも無きにしも非ず〈ないということはない〉。
………………………………
「決戦――相模が原の戦い」
織田軍団はすでに消耗しきっており、信長の股肱の家臣たちも散り散りに分断され、各々絶望的な戦いを繰り広げていた。
軍団の瓦解ももはや時間の問題であった。
小机城をとりまいて林立する三つ鱗(北条鱗)の旗、旗、旗……。
もう限界と信長が肝をすえたとき、北東の松林から突如として騎馬軍団が現れた。
信長はまだ上杉軍旗を見たことはなかったが、あれがもしかしたら毘沙門天軍旗ではないかと思った。
先頭で旗めいているのは「懸かり乱れ龍」の大旗であった。
もちろん上杉謙信の姿もあった。
大将自ら先陣を駆けているのだ。
謙信以下将兵はまったく無言のまま北条勢に打ち掛かっていった。
「――上杉軍だぁぁぁ――」
北条軍の兵士が叫んだ。それは絶望にも似た叫びであった。
北条勢がにわかに動揺し始めた。
信長軍に攻めかかっていた最前列の兵士さえ戦うのをやめ、どうやら逃げるべきかどうか逡巡しているようだった。
突入まであと少しのところで上杉謙信が振り返り、太刀を振って何事かを叫んだ。もちろんすべての兵には聞こえないが、阿吽伝心というのだろうか?越後兵が「おお――」と雄叫びを上げ、一斉に太刀を抜き、騎馬武者を先頭に、次々と突撃していった。
北条勢が崩れ始めた。
上杉謙信と織田信忠の北伐軍だけでも三万は下らず、さらに随身した佐竹をはじめとする北関東の諸将らの兵も馳せ下ってきているので、少なく見積もっても五、六万にはなるはずだった。
まさしく大軍団の総攻撃に等しい。
先鋒は上杉軍の精鋭八千――さらに織田信忠の馬廻り、および旗本が数千騎つづき、あるいは平行し、上杉軍と競い合っているようだった。
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